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船橋三田会 10周年記念誌に寄せて 

此の度、十周年の記念誌を手にして、現役学生中心の、船橋慶応会と称していた時分からの想い出を辿りつゝ、改称後の三田会が極めて完成度の高い組織になったとの印象を受けて、隔世の感を抱くと共に、編集に当たったTeam各位の精力的な努力に痛く感銘を受けております。
                28年経済学部卒  宮 靖司
宮崎さん10周年

折しも母校、慶応義塾の創立150年に当り、10周年記念誌の刊行が非常に意義ある企画であること言うに及ばず、永久保存版として筐底に深く秘蔵すべき珠玉の作品と賞讃するに吝かならず、此処に深甚の謝意を捧げるに躊躇するものでは御座居ません。
斯く言う僕も一部の作業に携わった者ですが、隈なく眼を通しての感想として期待を遥かに超えた出来栄えであり、只、僕自身のコメントとしては、紙面の関係から初期段階の追憶に止める事に致します。
即ち、前史の部分、“青春の頃のハイライト”に焦点を当てた時、舞台は内房の保田と言う漁村での合宿でしたが、後にも先にも昭和26、27年の夏場2回だけで、当時の仲間にとっては、洵に忘れ難いもの有りと思います。
参加者全員の顔触れは列挙しませんが、抑々の発端は小泉衛次先輩の提案、下見には僕だけお供して家主と交渉、最盛期には何人ものGirlFriendも参加、可なり賑わった時は、借りた部屋に入り切れない程;主に食事のメニュと、仲間の動静中心に、壁新聞書く者あり、之は小泉茂雄君でしたが、他に掃除当番あり、炊事の、料理の、そして又渉外の係も居て、昼間は専ら海岸での水泳、ヨットを操り、時に砂浜で麻雀に打ち興じ、兎に角良く遊び、大いに愉しみました。
元凶は、多分夕食に出た献立の、鯵のたたきで、女性仲間から一人の蕁麻疹患者が出、医者へ行く金もなく、薬局でエフェドリンを購入、注射し、又、水泳中に水母に刺されて首の辺りを真っ赤に腫らして、アンモニア水で手当てしたり、様々な交流を通じて親しくも、愉しい想い出が蘇ります(乱暴な事に、手当てした偽医者は誰あろう、之は蛮勇なのか、僕でしたが・・・)。
保田の海は殊の外、綺麗でした。
今以て目に浮かぶ夕陽の美しさ、夜の帳が落ちてからは、遥か遠くで揺れ動く漁火、流れて海に落ちる星の神秘的な姿等々、旅情を誘い、感傷を強いて止まない光景は枚挙に余りますが、出来れば今の会員、学生諸君にも経験させて上げたい位です。
然し、学年も卒業を翌春に控え、就職を考える学四の夏は、聊か落ち着きませんでした。つけても、閉館の期限が来て、恐らく、思う事を口に出せずに蕭然と立ち去ったであろう可憐なGirlFriend達、偶々現地で知り合った女子大生や、雙葉学園の学生達の、或る種の悲哀に包まれた失意は、如何ばかりだったか、如何にも気懸りでなりませんでした。
又、当時の仲間で、既に鬼籍に入った者もあり、堀池義一(文)、印藤順一、小泉茂雄君(共に経)達3名ですが、全て掛け替えの無い親友ばかり、人生は全く儚い次第です。
ともあれ、保田の合宿では一人として遊ぶだけの者なく、誰彼の指図が無くても、暗黙の中に夫々の役割を自発的に果たしていたと言う事実を強調して置きます。抑々、同じ釜の飯を食べ、新明解国語辞典にも有る様に、“親しさを増す為に、勉強や仕事などの目的を抜きにして、室内・室外の遊び事や飲食を共にすること”を知っていた事の証左であり、小泉先輩から、折に触れて聞かされていた、
゛ 友情は、温め合って育つもの”、
も未だに、僕の脳裏に鮮烈に刻み込まれて居る様な訳で、思えば頗る良い先輩が居られたもので、大変恵まれた学生時代だったと懐かしく振り返っております。
“恋愛はどうなんでしょう”、と訊いた処、“冷やして燃えるもの”だそうな。
其れから、“此方が幾ら尽くしても、駄目な同僚も居て、不可解に思う事が有る”事に就いては、“去る者は追わずで良いです、だけど、男一匹、孤独に耐えられる、凛とした覚悟が大事です”、とも言われました。
話の出序でに、小泉さんは、千葉の片田舎で、生涯の奥さんになられた方を、バスの中で見染めて結婚された情熱の人、僕がパリへ向けて出発の際には、此の奥様を羽田まで見送りに来させて痛く感激でしたが、心優しく、女優の高杉早苗にも似た素敵な方でした。
僕の目で見た現三田会は、会長の山下君が十年誌の冒頭に記した様に、素晴らしい人材の宝庫で、往時を思う程に羨ましい位、只、嘗ての船慶が今日的な理想像に近着けなかった事は、推察するに、或いは暴論かも知れませんが、会長二代とも、会員からでなく、山本登、小尾恵一郎両先生でした。然し尊敬の余り、畏れ多くて、遠慮と多少の距離が有った様に思われ、其れこそ、船慶から推した全慶連への代表、谷口雄作君辺りが会長になっていれば、話は違っていたのではないでしょうか。加えて、僕自身の例から言つても、卒業後は会社勤務の都合で、締めて20年ばかり外国駐在、内地に居ても度重なる海外出張で落着かず、余りにも空白が長過ぎた様に思われるます処、洵に以て残念で堪りません。
小泉茂君の訃報は、野町祥男君からで、北アフリカのアルジェでの駐在中に手にしたもの、其の後何年かの内に堀池、印藤両君をも相次いで失い、洵に落莫たる人生の悲哀です。
フランス映画に“望郷”と言うのが有りました。
“故郷(ふるさと)は、遠きにありて思うもの”、僕の場合、無慮20年の間、同様に、船橋慶応会も心の故郷として、思う事頻りでした。其の新生船橋三田会,吉種、古井丸、山下3会長の優れた統卒、並々ならぬ尽力にて、様々の同好会に接して受ける幸せを思い、日常大いに感謝しております次第、申し添えて置きます。
特に、今日在る船橋三田会に在籍し、Academicな側面をも期待して、忘年会などのEventの機会には、会員の中から講演者を募ろうとの提案に吉種さんが快諾、忘れもしない、初回は井上愛子さんにお願いして喜々として受けて頂き、力強く感じた経緯も御座居ます。之からも更に更に、躍進のピッチを上げて、より強く、より慥に“絆”を深めるべく、気心を合わせましょう、10年誌は言うに及ばず、“絆”が紛れもなく素敵な会報、主幹の西村保博君他、加えて10年誌玉成の偉業を発案、主管して鋭意成し遂げた井上慎一君達に対して、此の機会に多大の敬意を払うに聊かも吝かでは御座居ません。特に、“座談会、当時の模様”に遠方より遥かに足を運んで頂いた堀越修吉先輩から、素敵な感激を込めた礼状を、井上君宛に頂戴しております。尚、此の対談には夫々理由有って、同級の仲間内では、田中昭浩君と僕の二人以外は、青柳博之君も含めて参加して貰えず頗る残念でした。
世は、目下アメリカ発の不始末で嫌なムードのRecession,日常、只でさえ憂鬱な事も多々有る事でしょう。都会の雑踏に疲れた時などは、保田の夕日でも眺めに行つては如何でしょうか、定評の有るギリシャのスニオン岬や、マニラ湾の夕日に匹敵する、いや、之等をも凌ぐ程の“保田の夕日の美しさ”、騙されたと思って行って御覧なさい、癒されますよ、間違いなく。
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